せきねめぐみの、かまくら暮らし歳月記 – 皐月 –

– かろやかな季節 –

あれは小学生のころ。人を好きになることもまだ知らない頃にうっすら気になり始めていた人が五月生まれだった。それだけで五月がひときわまぶしい月になった。ようやく半袖になれる月なので今も相変わらず好きな月・・・わたしは腕が短いので、長袖を着ると袖がかならず余る。長袖しか着られない季節は袖口がつねにもたついてほとんどうっとおしい。お皿を洗えば必ずずり落ちてくる。ずんずん散歩したいときだっていくら腕まくりしようとも次の瞬間にはスルスル落ち元どおり。そのわずらわしさからついに解放される五月。今年はビーサンデビューも済んだことだし、身につられ心までかろやかになる季節がやってきた。

 

 

鎌倉はあちこちに小さな森や小高い山がある。ついこの前までどこもかしこも茶一色。そろいもそろってだんまりを決め込んでいたのに・・・・今はあたり一面フサフサの緑のじゅうたんに覆われ、鳥のさえずりに混じって草たちが空にむかって無心に伸びる音が聴こえてくる。つるつるぴかぴかの太陽と仲良く光り合ってまったく別人の顔をしているから大地の秘めるパワーはおそろしい。自然のしなやかな変化を吸収しながら歩く時間が最高に気持ちいい。歩けば歩くほど体の内を爽やかな風が吹きめぐる。

 

 

別人ぶりは海も負けてない。あたりかまわず潮をまき散らし、だいじなものをひとりじめするみたいに水平線をすっぽりきれいに隠してしまう。春の海ははげしい。ぐおんと轟音をあげ今にも海底から突き上がってきそうな大地と水のダンスに呑み込まれそうになる。冬のあいだつぐんでいた口から唐突に語り出される日変わりの物語。波がいきいきしている。さあ空に化けてやろうという力さえ感じる。こういう海は今までしらなかった。

 

 

ふしぎなことだけど、歴史の教科書でもそれなりの幅をきかせていて今でも多くの人の心を惹きつけつづける観光地に暮らし出すと、ただのなんでもない鎌倉を感じたいなあとか生意気にも思い始めるようになる。無意識に「鎌倉の鎌倉でもないような部分」を探している。どこにでもあるものの、ここにしかないもの。それはどこの国のどこの街にだってあるように当たり前にここにもあって、大いなる慰めといえそうなくらい美しい。なんでもない地下水路とか路肩のコンクリートとか雑草のための空き地。空に映える複雑な電線、通り過ぎた老夫婦の会話。そういうものに出くわすたびにほっと肩を撫で下ろして泣きそうな気持ちになったりしているので変な奴だと思う。毎日思わない日はない、ここに来られてほんとうによかった。それなのにずっとここにいるつもりもない。去る日がくるのは必然で嫌になったからじゃない。人生を終えるときだってきっとそうだろう。

 

 

– どうにかこうにか命 –

「どうにかこうにか」ということばが好きだ。わたしたちはどうにかこうにか生きているに過ぎないんだなあとは、あきらめではなく安堵のため息。晴れも雨も順番こ。これでいい。生きているからえらいわけでもないし、生きているから希望でも絶望でもない。いのちはそんなに頑丈でもないけどそんなにもろくもない。どうにかこうにか、きょうも一歩、二歩。だれもがただ生きているだけでいい。へんな渦に巻き込まれたり黒い力が忍び寄ったりするよしもなく、ただ太陽に応答し、ただ草のように天をめがけ伸び、魚のようにただただ水の中を泳ぐ。それなのに。

 

 

鎌倉が舞台の大河ドラマを毎週見ている。連続ドラマを見ることはまったくといっていいほどないわたし。今住んでいる土地でかつて起こっていたことはやっぱり知りたいよねと思い参考までに見始める。それに頼朝の人生の一幕があった伊豆にわたしの実家はある。伊豆と鎌倉。ちょっとだけ縁を感じてしまう。

 

 

武士の世のはじまりを作った頼朝。こわすぎる人。ひとり大人しくドラマを見てはいるが最近は心の中で開いた口がふさがらない・・・策略とか見せしめとかなぞの人質とかで死ななくてもいいはずの人が次々あっけなく死んでいく。ほんとうにあっけない。つい今しがたそこにあった命がもう今ここにない。なぜ?たった一瞬でどこにいった。ただ生きているだけで奪われる命ってなんだ、なにが命なんだと思ってしまう。刀なんかちゃらちゃら腰にさしているから命が儚い。人はペンを握る前に刀を握る道をこうもとおらねばならなかったのか・・・もし始めから皆が皆読み書きのできる世界であったらだれか刀を持つことはあったのだろうか?

 

なんのための命かと思いながらこの世を去るのは今わたしのあたまで考えられる中でいちばん切なくやりきれない。この命はいったい何に使うことができたのかと。そんなことさえ思う隙なく無残に消えねばならなかった命も地球を何度覆い尽くしても足りないほど数えきれない。今彼らはどこでどうしているのだろう。元気なのかな、美味しいもの食べれているかな、もうこの世はこりごりかな。地上で過ごした日々は、忙しなく動いた心は、今どこにある?そういうのが全部寄せ集まってひとつの塊みたいなものとしてどこかで蠢いているのだろうか。一個の巨大な心臓みたいにして。わたしも、そこから来たのだろうか。毎週ふくざつな気持ちに眩暈をおぼえながらそっとテレビを消す。

 

 

– 生きることは一枚のラブレターを書くこと –

命のゆくえに思いを馳せる最近のある朝、人生は一枚のラブレターを書くようなものだと唐突に思い至った。ラブレターというのがみそだ。決して悔いや恨み辛みをたらたら書きたくない。反省も侮辱も嫉妬も敵意も闘志もいらない。まやかしや嘘もけっこう。真っ白な紙を汚していくのが人生ならこの体と心で出会った愛をただあらわしたい。地上での命が尽きるまでわたしはいったいどんなラブレターを書き上げられるだろう。覚悟のいることだ・・・創意工夫をわすれず、なによりたのしみながら書きすすめていきたい。たのしむというのはきっと苦を生きる力に変えていく創作行為なのだろう。人生はたのしむためにある。

 

 

 


写真・文/関根 愛(せきね めぐみ)

俳優、執筆、映像作品制作を行う傍ら、ライフワークとして食に取り組む。マクロビオティックマイスター/発酵食品マイスター。veggy公式lifeアンバサダー。伊豆育ち、東京のち、鎌倉暮らし。
Youtubeチャンネル:鎌倉の小さな台所から|MEG’s little kitchen in Kamakura
Instagram:@megumi___sekine(アンダーバー3つ)

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