せきねめぐみの、かまくら暮らし歳月記 – 長月 –

クライマックス 

真夏のピークが去った。やっぱりこの時期になるとフジファブリックの「若者のすべて」だ。もっとも初めてこの歌に出会ったのは春で、今年もまた桜がきれいに散っていったな、のそのあとで、しばらく片思いをしていた人が結婚することを突如知ったまさに衝撃と落胆と悲しみのその時だったので、私の中ではいつ聴いても切ない春の歌として蘇る。でも、やっぱり夏がじりじりと去りゆこうとしている今のような時に聴くのが一番しっくりくるんだなあ、と改めて思う。夏の間に溜め込んだ熱をすーっと冷ましてくれるようなイントロのメロディーが最高だ。そして夏の終わりを歌った歌に「若者のすべて」というタイトルをつけられる志村さんがすごすぎる。きっと永遠に聴かれ続ける曲だと思う。

 

 

この夏“最後の花火”は友人たち四人と、稲村ヶ崎温泉前の国道沿いから見た。江ノ島の花火大会がコロナ対策で三日間に分散されたので、一日につき三分間だけの短い打ち上げである。温泉からあがったばかりの火照った体を湿気た潮風にあてながら、やや遠くの江ノ島の上空にオレンジの花火が小さくひらくのが見えた。見えたとはいっても、三分はまさに瞬く間で、結局ちゃんと見れたんだかどうなんだかよくわからないうちに終わってしまった。あっけないね、と笑い合った。

その前は、パートナーと私の地元の花火を見に行った。つっかけみたいな実家サンダルと部屋着のまま、父が「この辺なら、あそこならだれもいないしよく見えるだろ」と言う場所まで歩いて行った。そこはひっそりとした住宅街の海抜のすこし高いところで、目の前の景色がすこんと抜けていて、海辺に打ち上がる花火をとてもはっきり、見上げるでも身を乗り出すでもないちょうどよいサイズで眺めることができた。きれいだった。途中、何度もクライマックスかと思うようなみごとな連発を繰り返した。そして一番派手なクライマックスをちゃんとやって、なにもなかったようにしんと終わった。

「クライマックスがなんどもあるね」と、パートナーが低い声でぽそりと呟いた。自分たちのことを言っているのかと思い、少しどきりとした、のは、ばれていないと思う。いつかかならず終わりがくるのはわかっている。けれど、それがどうやってやってくるのか分からないし、だからずっとこのまま、終わりそうで、なかなか終わらない今を一緒にいる。これでもう最後かな、と思うような時をなんどもなんども経て、こうしてまだなんとなく隣にいる。「運命なんて便利なものでぼんやりさせ」ることさえない、そんな自分たちのこと。

なんだか、「若者のすべて」はそういう歌のような気がしてきた。どういうって、夏の終わりを歌いながら、歌っているのは終わりがないことという、そういう歌。短い人生の中で、毎日生きて死んで生きて死んで沢山繰り返して、そのうちいつになったら「最後の最後」がくるのか分からなくなって、ほんとうに最後なんてあるのかものすごく疑わしくなって、最後なんてどう見てもこなさそうにしか思えなくて、終わりがこないことがどんどん恐怖に思えてくる。そんなものが、志村さんにとって若者のすべて、だったんじゃないか。都合のいいように聴こえているだけかもしれないけれど、最後がわからないというのはすごく不安なことだと私もよく思うから。

 

 

ひとり上手

父方の祖父母のお墓参りへ行った。お墓から少し歩いたところに大工だった祖父の建てた家があり、そこで祖父母が暮らした。二人が去ったあとは叔父がひとり暮らしている。長いこと電車に揺られてしずかな山あいのお墓へ足を運ぶたび、さみしくなったその家へ寄ってみるのだが、叔父は仕事に出ていていないことが多い。叔父の電話番号もわからないので、いつもふらっと寄るしかないのだ。

その日の夕方、なんとなく今日はいるかもなあと思いながらいつものようにふらふら向かった。玄関へとつづく長い砂利道をなるべく不審な音をたてないようにそうっと歩いていくと、叔父はかつて祖父母の定位置だった掘りごたつのある縁側に面した小さな和室の座卓の前でぼうっとテレビを見ていた。網戸越しに、夜勤あがりなんだろうな、という顔が見えた。数年ぶりに見る姿だ。

私は縁側に腰かけて、叔父は和室に座ったままで、少し会話をした。小さい頃に叔父に会った記憶はなく、祖父母のお葬式くらいから、つまり大人になって初めて叔父を叔父と知ったといってもいいほど、もともと疎遠に近いものがあった。

それでも少ない回数ながら会うたび、叔父の顔はいつでもつやつや磨かれた陶器みたいに滑らかで、土色ではあるけれどとてもぴかぴかしていて、お酒と煙草を沢山やるような人の肌には思えなかった。ふしぎなのは、父の弟であることはもちろんわかっているし、顔は似ていなくとも両親の面影の残り方なんかは似ているものの、どうにも父と叔父をむすぶ線がとても薄くて見えづらいというか、この人たちがきょうだいなんてへんな現実、というのがいまだに私の思うところだった。

 

 

叔父は「何もないけれど..」とぼそぼそいい、冷蔵庫から冷たい麦茶のペットボトルとアイスクリームを出してくれた。ありがたく麦茶をいただく。還暦をこえた今もずっとひとりで暮らしていて、家と仕事場の往復しかせず暇だけは沢山あるので、祖父の畑だった場所やかつての集落の共同の小さな神社が建つ境内の草刈りや整備なんかをせっせとしているんだと話してくれた。

私の母に言わせれば、関根家の血はなんでもかんでもびっくりするくらいきれいに片付けてしまう「メンテナンス好き」。祖母がいなくなってからのこの家はすみずみまできれいさっぱり片付けられてしまって、昔から庭にあった風呂小屋は壊して簡素な物置のようなものに作りかえられ、ずいぶんとこざっぱりしていた。父と叔父をつなぐものが見当たらないと書いたが、いや、メンテナンス好きは確かによく似ているのだった。そして叔父の庭の手入れの仕方や部屋の片付け方、物や空間から出ている気配は父のとそっくりなのだ。

そんな叔父は肺気腫になって煙草を、急性膵炎になってお酒をやめたという。叔父といえばお酒と煙草という感じに聞いていたので、そのふたつを抜いてどうやって生きていくんだろうと勝手ながら思ったが、いつ会っても淡々としていて、月日の流れを感じられなくて、ちょっとだけ仙人っぽく思えてしまう叔父はこの先もこの叔父のままで、森の木々がひっそりと息をするようにそっと生きているような気がする。

 

 

いつだったか、お盆に父と母と一緒に叔父を訪ねたことがある。祖母亡きあとの件の小さな和室を懐かしさに何気なく見まわしていると、数本のカセットテープが並ぶ棚の一角があった。テープの背表紙には丁寧に一文字一文字書いたのだろうと思わせる慎重な文字で内容が記されていて(このカクカクとしたやや斜め気味の几帳面な字も父のとそっくりだ)、昭和の歌謡曲か何かのようだと思ったが、その中の「ひとり上手」と書かれた一本のテープに目が留まった。気のせいかもしれないが、その字は少し震えているように見えた。

中身がなんなのか、どうしてそれがそこにあるのか、仮にそれが歌だとして叔父はそれをどんな気持ちで聴くのか、とても気になった。おじさんは、ひとり上手になろうとしたんですか。あ、もしこれが歌でなくて落語の演目だったら、そっちのほうがまだいいな。なんて、ぐるぐる考えたのと同時に、そんなことはほんとうにどうでもいいことなんだというか、叔父がこの叔父である理由などどこにもない気がした。私が私である理由だってあるようでどこにもないし、ただ月日の流れのなかでここまできて、今こうしているだけなのだから。そんなものを知りたいと一瞬でも思った自分を、とても浅はかな生きものだと思った。

いただいた麦茶を飲み干したら、陽も暮れかけた。以前同じような状況で尋ねたときも断られたような気がするが、今回も一応それとなく聞いてみる。おじさん、ごはん食べた?私はこれから食べるけど、その辺で何か一緒に食べる?いやあ、俺は買ったのがあるから、俺はいい。この前とまったく同じトーンで、同じ答え方。そうだよね、と心の中でつぶやきながら、それでも分かっていながら聞いてみてよかったと、胸の中が少しだけ温かくなった。突然訪ねて行ってしまったが、土足で踏み込んだらいけない場所にまでは踏み込まなかった、なぜだかそう思えた。

突然の訪問のお詫びと会えて嬉しかったことを伝えて、叔父の家をあとにした。夏の終わりの日没、むせ返るような山の緑の匂いにつつまれながら、夏虫のか細く鳴く林道を歩き出す。「壊すのは得意なんだけど、作るのがどうしても苦手でね」という叔父の言葉が、頭の中の空洞にぼんやり響いている。しばらくしないうちに、底抜けにしずかで不気味なほどの暗がりがこの山あいをすっぽりと覆うのだろう。闇の訪れをだれも避けられないなら、降りてくるのができるだけ穏やかで優しい夜であることを、この空や風や山のどこかにいる祖父母にそっとお願いする。

 

 

壊れていく

病院に行きたくない。好きな人なんていないと思うけれど、病院がほんとうに苦手だ。行けば必ず病気になるような気さえする。もちろん自分ではどうしようもない時に頼らせてもらうしかない場所で、私も何度もお世話になっているし、そこで赤の他人の体のために昼夜問わず働いている方たちのことを尊敬する。ただあまりにもこれまであちこちで病院に行くことが多くて病院の診察券が山のようにある(引っ越しが多いというのもあるが)自分にもううんざりしているし、もうできるなら二度と行きたくないといつだって思う。

しかしここ数ヶ月ほど、のどの不調が続いている。以前ある病院で診察を受けたが原因がわからなかったので、耳鼻科へ行ってみたらどうですかと言われたきり行きたくなくてずっと避けていた。耳鼻科にはほとんど恐怖しかない。幼い頃さんざん通っていた耳鼻科の先生が怖すぎて、痛い思いをいっぱいして、病院がきらいになる始めのきっかけを作った場所ともいえるからだ。と、子どものようなことをしつこく思っていてもやはり調子がよくならないので、先日意を決して鶴岡八幡宮のそばにある古い耳鼻科の門をくぐった。また新しい診察券が増えてしまった。

診断はアレルギー性咽頭炎と難聴(あと一歩で)。この体はアレルギーの問題が常に絶えないので、ああまたか、という感じ。耳の方は、幼稚園児の頃にやった中耳炎の時に鼓膜を切ったことやその影響で一時期ほとんど耳が聴こえなかったことがあるからか、今でもひどい耳鳴りが治らず、このままでは難聴になりかねないと言う。薬が効かなければ手術をしなきゃいけないかもしれないようなことをいわれ、子どもの頃の恐怖がとたんに甦る。どうしたもんだろう。目の視野は欠け始め、耳はすでに聴こえづらくなり、鼻は年中ぐずぐずで、のどはつねに炎症傾向にある。

 

 

子どもの頃、母に「あなたは首から上、ほんとに全部弱いわね」といわれたことをよく覚えている。おまけに口も悪いし(言葉遣いが悪いということ)、と。その言葉を思い出すたび、今だにどこも治らないそのままの自分がしれっといることに落ち込む。母は事実を述べただけなのかもしれないが、父は耳や鼻が弱いし母だって目ものども悪いんだからこれはほとんど遺伝じゃないか、とか、言葉には力というものがあるんだからもっとそうなっちゃうぞとか、むきになって反抗する小さな自分が今もいる。体の面で不調がでるたびできる努力はしてきたつもりだが、変えられるものと、変えることのできないものがあり、そしてその見分けがつかない。

まだ十年は早いと思いながら少しづつ壊れ始めている体を思うと、生物の必至というのか、服のようにこの体を脱ぎ着できるわけじゃなし、結局は何を言っても仕方ない。どんなにガタがきていてもこの身だけがこの世の拠り所、唯一の頼りなのだ。「人生は行って帰ってくる運動だ」というが、私の体がすでに帰りのほうの道を歩いているのだとしても、できるだけこの体と仲良くし、大切に扱い、最後の日までどうにか居場所でいさせてもらうしかない。いつか手放すこの体に、込められる心は込めて、感謝を忘れず、ちゃんと使い切れるその日までどうか生きていけますように。

 

 

あの日の先

実は、今年最後の最後の花火はあれでおしまいではなかった。今日何気なくいつものように海へ向かって夕暮れの散歩にでると、とおく逗子海岸のほうから花火があがったのだ。思わぬできごとでなんだかラッキーな気持ちになった。しかも江ノ島のより地元のより、ずっと長かった。うす暗くなっていく砂浜を花火に向かって裸足で歩きながらふと、五年前のちょうど今日パートナーと一緒に住み始めたことを思い出した。東京の下町、根津で始まった二人暮らし。根津駅から東大前のほうへ向かって坂を上がっていったすぐ先にそのアパートがあった。弥生という地名で、それは確か弥生時代の土器がその辺りから発掘されたことに由来するのだそうだが、本当なのかどうか。一緒に住み始めて、真っ暗がりだった世界からすこし陽のあたる場所へ出てくることができた。あの日の先に今がある。

突如、太い波がきて、足元を殴られたような強い衝撃を感じた。立っていられないくらい、揺らいだ。隣を見ると、パートナーが「あー」という顔をしていて、ビーチサンダルが片方だけ流されていくのが見えた。ものすごい勢いで波に呑まれ、瞬く間に見えなくなっていく。取りに行こうにも、浅瀬とはいえ危険なくらい波が激しい。そのうち押し返されてきそうじゃない?と、しばらくそこで待った。

数分ほど経っただろうか、何かがこつん、と足元に触れた。今日のような波が荒い日は、波打ち際を歩けば必ず木や石などの漂着物に当たる。軽い木のような感覚がしたが、暗がりに目を凝らすと泡にまみれたビーチサンダルだった。戻ってきたのだ。が、次の瞬間またすごい勢いで呑まれていこうとするので慌てて走り、手探りならぬ足探りでなんとか右足の先がサンダルをつかまえた。ほんの数秒間のことだったけれど、そして相手はビーチサンダルであるけれど、久しぶりに背に腹変えられぬ感覚で何かを追いかけた。また流されてしまったら、パートナーは裸足で歩いて帰らなければならない。私のをあげようにも入らないし。それはいけない。それだけを思った。

五年もの時間の中で、私はパートナーに何をしてあげられただろう。流されたビーチサンダルを拾うことくらいしかできていない気がようなする。来年はもう少しましなことができているだろうか。「あの日の先に今がある」。五年後の私が今日のことをふと思い出す時、そのあいだに流れた時間のことをどのように慈しむんだろうか。その時どんな景色の中にいるだろう。そんな知るよしもないことをぼんやり考えていたら、いつのまにか花火が終わっていた。

 


写真・文/関根 愛(せきね めぐみ)

俳優、執筆、映像作品制作を行う傍ら、ライフワークとして食に取り組む。マクロビオティックマイスター/発酵食品マイスター。veggy公式lifeアンバサダー。伊豆育ち、東京のち、鎌倉暮らし。
Youtubeチャンネル:鎌倉の小さな台所から|MEG’s little kitchen in Kamakura
Instagram:@megumi___sekineアンダーバー3つ)

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