せきねめぐみの、かまくら暮らし歳月記 – 弥生 –

三月を迎え、長い冬の出口がようやく見えてきそうだ。鎌倉では凍てつく寒さは去り、海も風も空も春色をしはじめた。冬がくると「あーまた冬だ」と思うのに、春はなんど迎えても「あーまた春だ」とはならない。朝が何回きても嬉しいのと一緒で、春は何回でも巡ってきてほしい。となると、やっぱり巡りなわけなので夜とか冬は必要なのかあ。ニット帽や分厚いコートやマフラーをひとつずつ脱いで、肌が空気に近くなるのが待ち遠しい。靴下やレッグウォーマーでがっちり守られていた足も、もうすぐで裸になって、思いきり砂浜を歩ける。やっぱり冬があるから春のよろこびが身にしみるんだな。

 

北鎌倉の東慶寺の梅が、ぽつぽつ咲き始めていた

 

みなさんの暮らしは、どうですか?自身の暮らしについてのコラムやビデオを作って配信しているわたし。同じ地球に同じ時代に生きている人たちの暮らしに昔から興味があった。ミヒャエル・エンデの児童書「モモ」の結末で、主人公モモは、時間どろぼうから盗まれた人びとの時間をついに取り返す。時間を節約することに躍起になるあまり大切なことを見失ってしまった人びとのもとに、落ち着いた平和な毎日がふたたびおとずれ、皆がそれぞれの人生をゆったりと、そして生き生きと生きられる世界が戻ってくる。そのときのようすを表現したこんな一文がある。「人びとは足をとめてしたしげにことばをかわし、たがいのくらしをくわしくたずねあいました」(「モモ」ミヒャエル・エンデ作/大島かおり訳/岩波書店)。

 

わたしはこの文がとても好き。平和な世界というと大きすぎる幻想に思えるけれど、それはきっとこういうことなのだろうなと思う。おなじ時代を生きるほかの人たちが、どんなふうに朝目覚め、どんなものを料理して食べ、どんなふうに余暇を過ごし、どんなことが頭をよぎり心をかすめ、夜はどんなふうに眠りにつくのか。たった今通り過ぎたあの人やさっきまでただの偶然で隣り合っていたあの人の暮らしは、いったいどんな風なのだろう。そんなことを想像し、それを愛おしむ心こそ、平和のしるしに思えてしまう。そういう思いあいがこの世界を巡りつづけたら、地球はしあわせにあふれると思う。この何気ないコラムが、そんな小さなしあわせをつくる場所になったらいいなあと、じつは夢みています。

 

寿福寺の緑の参道

思わずこちらの背筋も伸びるほど、すっとして真っすぐ

 

月にいちど、腰越の龍口寺で開かれる骨董市をたずねた。鎌倉の南西に位置する腰越は、古代から鎌倉の玄関口だったそう。今は、のどかなで純朴な漁村という雰囲気。休みの日に目的もなくぷらぷらと散歩をしたくなるようなところでもある。のんきな海鳥の声がどこからともなく響き渡り、風も日射しもおだやか。古い写真館に洋品店、お豆腐屋さん、自転車屋さん、干物屋さんに和菓子屋さん…歴史のありそうな個人商店が静かにたたずむ腰越商店街は、江の電が唯一路面を走る区間でもあり、時間を急く人は誰ひとりとしていないかのようにゆったりした時間が流れる。

 

腰越商店街を走り抜ける鎌倉行きの江の電

 

毎月第三日曜の朝七時からはじまる「湘南・龍ノ口骨董市」。潮風がそっと吹きいれる境内に、さまざまな時代から運ばれてきた古道具や古民具、古玩具たちが並ぶ。日本のみならず英国、フランス、タイ、中国、韓国など世界各国の趣向さまざまな骨董品たちが海辺の古いお寺で一堂に会し、そろって春先取りの日射しを浴びているようすはきれいだった。

 

 

時には朝採れたばかりの無農薬野菜を売る人がいたり、おでん屋さんが出ていることも。わたしが訪ねたのは、雨上がりの翌日。露店の数こそそこまで多くはなかったけれど、どれもこれも見応え充分で素敵なものばかり。気になるものをひとつずつじかに手にとっていると、以前の持ち主の暮らしやその手を離れたあとの旅路が手をとおして伝わってくるような気がする。こういう無言の贅沢な会話は、大型ショッピングセンターにぴっちり並ばされた(その光景をみるたび兵隊を想像してしまう)量産品ではぜったいに生まれない。そういうものが商品なら、ここに並んでいるのは道具。暮らしに本当に必要なのは商品ではなくちゃんと呼吸をしている道具だ。

 

 

ゆっくりと歩くおじいさんや、外国の人、高校生くらいのカメラ少年、近所の子どもたちなんかも鈴のような声を響かせながらふらっとやってきたりして、たのしそう。出店者の人たちも思い思いのふるまいで、無心でカップラーメンをすすっていたり、文庫本をじっと読みふけっていたり、開け放したバンのうしろに腰掛けておせんべいをかじってにこにこしていたり。のんびりやっていまーす、という風情で商売っ気があまりないから、わたしも肩のちからを抜いて物見できる。たまにことばを交わす。他愛ない話。ずっとあとになって突然ふっと思い出すような瞬間は、こういった一見なんでもないような日常の細部のできごとだったりするよなあと思いながら、雨の置き土産でぬかるんだ土をひょいひょいよけていく。今日は何を連れて帰ろうかなあと真剣に考えはじめて疲れてきた首を伸ばそうと上を見上げると、ただ青い空と白い雲。それだけで今満ちているし、足りている。いいなあ、露店っていいな。

 

 

そういえばここの露店のいくつかは、骨董品の並べ方が独創的。とんでもない量が雑多に積み上げられた大規模なフリーマーケットはそれはそれで体を張った宝探しのような面白さがあるけれど、ここはそういうのとはちょっと違う。ひとつひとつが風をはらんで、静かにたたずんでいる。いちにち限りの儚い露店の、その顔である道具の一点一点に込められた店主さんの愛情に触れている気がする。露のように消える店だから露店、という表現も初めて腑におちてくる。お寺の境内という澄んだ空間も相まってか、とても気持ちの良い空間だった。

 

 

美しい五重塔をもつ龍口寺は、境内の裏山を登った先にサンスクリット語で「ストゥーパ」とよばれる珍しい形式の仏舎利塔、そして湘南の空と海と街を見渡せるちょっとしたパノラマが広がっている。お天気のよい日は富士山もきれいに望めるし、平日はひともあんまりいないので、ひとりひっそり肩をなで降ろしたりしている。

 

腰越駅の近くにはフレッシュストア・ヤオミネというローカルスーパーがあって、頑張りすぎない感じで出迎えてくれるので安心する。お手頃(というより破格)な値段で売られているてづくりのお惣菜の種類がとても豊富で、端から端までじっくり眺めているだけでお腹に入れて味わっている気分になってくる。

レジに入っているのはだいたい近所から出勤してきている逞しそうなお母さんたちという感じで、制服ではなく自前の家着みたいなのとか使い込んだエプロンとかを着ているあたりにまたどうしようもなくほっとしてしまう。以前長くて太い立派なごぼうを買ったことがあって、「切りますか?」と聞かれたのではいと言ったら、お母さんがどこからともなくでっかい菜切り包丁を取り出してあざやかな一撃でバスッ。「はいこれでいいね。」

レジを打ちながらお母さんが、向こうのレジのお母さんになにか話しかける。別にそれ言うの今じゃなくてもいいんじゃないのみたいなことを思ったそのままただ空へ放っている。わたしの頭のうえを、お母さんたちのことばがまあるく行き来する。直線的なことばは疲れてしまうけど、たとえばおばあちゃんちとかそうだったけど、昔の家の中ってこういうことばがそこらじゅう飛び交っていたような気がする。何も買う物がなくても、なんか来たくなってしまうんです。

 

ヤオミネのてづくり惣菜

 

骨董はいくつも心惹かれたものがあったけど、今回は悩みに悩んで二点だけ購入。ひとつはフランスの古い豆皿。鎌倉に住む店主の方はフランスの友人から買い付けることが多いそうで、フランスのパン屋さんの古い包みに丁寧にくるんでくださった。仲の好いお友達に話しかけるような気さくさで接してくれるおばさまで、わたしが見て回るあいだじゅう色んな小話をしてくれた。お会計するとき「これね、二百円割り引いておくわね」とそのときだけ急に内緒話をするみたいに声をおとして言った。それで小さいとき妹としていた、部屋の電気を消して布団をかぶりわざとこそこそ話をする遊びを思い出し、背中がくすぐったくなった。温かなお心遣い、ありがとうございました。

 

 

もうひとつは小さな古いマッチ。今出回っているものの半分程度のサイズ。浅草新仲見世甘味処「つくし」と書いてある。浅草はわたしの心を焦がしてやまない場所なので、それだけで欲しくなってしまった。さらに今はめずらしいという木箱製で、マッチの色も黒白。昭和初期のものでは?という店主さん。火はつくのか試してみたところ、一本はついた。やさしい火だった。火にも顔があるんだなあと思った。使うのがもったいないけれど、湿気てしまう前にぜんぶ大切に灯したら、「つくし」に関わった人たちの物語を遠くから照らせるのかな。

こちらの店主さんのディスプレイの仕方は遊び心があって面白かった。古いラジオ音源を流しながらちょっと異空間でさえあった。ガラスのコップを敷いていた馬の絵が描かれた白い封筒が可愛かったので売ってくださいとお願いしたところ、それはいくつか持っているのでさしあげますと言ってくださったので、ありがたくいただいた。聞けば、猪熊源一郎さんの絵。古いものたちが繋げてくれる一期一会の新たな人との出会いもまた宝物になる、すてきな骨董市だった。

 

 

古物つながりでもうひとつ。暮らしている町に一軒でも好きな古本屋さんがあるとうきうきしてしまうけど、ここ鎌倉へきて意外とあっさりそんなお店を見つけてしまった。由比ケ浜大通りにある「公文堂書店」。

 

 

鎌倉駅から歩いて五分ほど、海側に南下した場所。お店に入ると、床から天井まで所狭しとひしめき合う本たちの囁きが聴こえ始める。本の山、本の谷、本の池。わたしの知らないいくつもの時代が、暗く閉じられたページの中でジッと息をひそめている。そう思っただけで今すぐにでもすべてのページを風になびかせ光をあてたい衝動に駆られる。木の葉の一枚一枚を肌に感じながら深い森を歩くように、本たちのあいだをゆっくり進む。ここにはとてもとても古そうな本も初めて見る本も沢山。こころを掴んで離さない一冊を求めて、今日も公文堂書店へむかってしまう。お気に入りをみつけたらすぐ近くの由比ケ浜まで歩き、太陽の真下に腰かけてさっそくページをひらく。絶えまない波の音がちょうどよく物語に没入させてくれる。

 

公文堂書店で最近購入したもの

 

由比ケ浜大通りは、元気なおむすび屋さん、あれこれ目移りしてしまう花屋さん、江戸や明治へうっかりタイムスリップしてしまう古物屋さん、いつも気兼ねなく声をかけてくださる自然食品店、タイの子どもたちのために立ち上げた生活支援施設で作られたてしごと雑貨を売るお店、鎌倉名物のわらびもち屋さんなどなど・・・・。あげ出したらきりがないくらい素敵な個人商店が立ち並び、ここもまたのんびりした時間が流れている。そんな通りを鎌倉駅側から西へ向かってひたすらまっすぐ進めば、やがて長谷寺と鎌倉大仏が近づいてくる。

 

 

のんびりと言えば、都内から鎌倉へ越してきて沢山の嬉しい心身の変化が起こった。いちばん大きいのは、こころに余白ができたこと。東京は今でも大好きな街だけど、そこで暮らしていたときのわたしの心といえば風の通る隙間さえないほどすし詰め状態。ふとした時に大切ななにかがスッと入って来てくれるような余地は少しもなく。

 

 

鎌倉は海やハイキングのできる小さな山々に囲まれて、東京からそう離れていないにもかかわらず雰囲気がまるで違う。風の通り道が、四方八方にある。その風に吹かれて、わたしの心を埋め尽くしていた有象無象たちは雲間がだんだん晴れていくようにいつしか消えていった。

 

都会では高い建物に阻まれて姿をとらえることがむずかしかった朝日や夕日が、まるい空いっぱいに感じられる。自然に触れるとき、人身小天池ということばを思う。外の世界で起こっていることとわたしたち一人一人の体は結びついており、つねづね呼応している、という古くからの考え方。それで、まるで空がわたしの心そのもののように感じられる。朝日や夕日の煌めきが、わたし自身の内にも同じように起こっている。そう思えたとき、なにもかもが大丈夫だという気がする。そんな隠れた美しさに気がつくことができたのも、ここ鎌倉へ移ってきたから。

 

 

大自然のおかげで心に余白ができると、「暮らしたい」という気持ちがむくむく生まれてきた。ただ生きたい、のんびりゆっくり、暮らしを営んでいたい。面倒だなと思いながら立ち上がってていねいにごはんを作ったり、やらなくていいほうが楽なんだけどなと思いながら掃除を始めたら夢中になったり、だるいけどもなんて思いながら靴を履いて歩いているうちに散歩が人生のすべてかもしれないなんて思い始めてしまったり、そういうことを思いっきりやっていたい。

人ってなにがあるかわからない。台所に立つことは年に一度もなく、日光を拒みカーテンも年中閉め切ったまま、埃をかぶったまま使わない物たちで溢れ返った薄暗い部屋に住み、とにかく夢ばかり追いかけて暮らしなど遥か彼方へ追いやっていて全然平気だった十年前の自分が聴いたら信じられないという顔をすると思うけど、計画どおりにはいかなかったものを人生と呼ぶのかもしれない。

 

自分に起こりはじめた変化が内心とても怖かったとき、ベルリンの現代美術館へ行ったことがある。そこにただの白い壁に小さく一言書かれただけの作品があった。〈We live the surprise results of old plans〉。わたしたちは遠い昔に立てた計画の、おどろくべき結果を生きているらしい・・・・?なんていうことだ!これも夢のつづきなのか。人生をわかるには百万年早い。過去(もしかしたら未来)からここ一番の愛をもって呼びかけられた気がして、わたしはその白い壁のまえをしばらくうごけなかった。

 

 

そのあたりから堂々と暮らそうと思い始めたわたしは、鎌倉での毎日を通して、自分にないものより、自分にあるものへ目をむけるように変わっていった。それまで美しさはいつもじぶんのずっと外側にあった。まだ見ぬその美しさを求め、ひとはどこまででも旅することのできる変わった生き物だと思う。でも決して遠くばかりを目指すことをその旅と呼ぶのではないと知った。足もとの、目の前の、小さな瞬間に宿っている無限の美しさがあるのなら、それをすくいあげて喜べる生き方もある。そもそも美しくないものなんてない。なぜなら美しさの居場所はひとの心の中なんだとあるとき気がついた。それを発見することができれば、世界はいつだってすでに美しいと思う。

 

 

三十代に入ってややもしないでこんなのんびりしたことを言っていると、若々しくないとかまだまだやってやんなきゃいけない時よとか、言われることもたびたびある。自分でもこんな自分になっていることが少し信じられないけど、年齢は関係ないし、起こっていることが起こっているだけと諦めてもいる。あまり期待したくない。人それぞれに四季があるのだと思う。今の自分がどう感じているかをちゃんと大事にできたらとりあえず上出来。いつまでも同じままはなく、いつかまた変わっていくからこそ、今の季節を大切にしていたいと思っている。

 

 

ぷくぷくの蕾が花ひらき、虫たちが這い出て、風が少しだけやさしくなる春先。みなさんにとって心地よい暮らしのたねを運んでくれる季節でありますように。ここまでお読みいただきありがとうございました。では、また〈卯月〉の鎌倉でお会いしましょう。

 

 


写真・文/関根 愛(せきね めぐみ)

俳優、執筆、映像作品制作を行う傍ら、ライフワークとして食に取り組む。マクロビオティックマイスター/発酵食品マイスター。veggy公式lifeアンバサダー。伊豆育ち、東京のち、鎌倉暮らし。
Youtubeチャンネル:鎌倉の小さな台所から|MEG’s little kitchen in Kamakura
Instagram:@megumi___sekine(アンダーバー3つ)

 

 

 

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