好きな季節はなんですか
秋の足音が聴こえてくると、家が黙りこくった。梅雨のはじまりから四六時中回しっぱなしにしていた鎌倉暮らしの必需品、除湿機の運転をやめたのだ。大型でかなり騒音のするタイプなので、彼(彼女)がすっかり黙り込んでからの久しぶりの静寂はみごとなものだった。そういえば、庭を覆い尽くさんばかりだった草たちの生える音ももう聴こえない。塀や電柱の上であんなに朗らかに歌っていた鳥のさえずりもはるか空の彼方へ消えた。ふとそんなことに気づいたある朝、あまりに暑過ぎてなんども焼かれて溶けてしまうと思った太陽が、じんわり肌にあたたかかった。
夏が始まるやいなやあんなに激しく潮の匂いを撒き散らしていた海も、とても大人しくなった。波しぶきにのっかって鼻腔の奥にまでモワっと伝わるあの強烈な生命の匂いがないと、いつもの散歩もどこか寂しくてもの足りない。とても寒くてさすがに無理だというぎりぎりの日までビーチサンダルで夕暮れの浜を歩きたいけれど、その日がすぐそばまで近づいている予感がする。これから長い寒い季節がくる。
庭のある家に住んでから、季節のこまやかな変化を感じるようになった。移動式の物干し竿を使っているのだが、陽がよくあたる時間帯が変わったので、それに合わせて場所を移す。庭の隅に小さいけれど椿の木があって、もうぷっくりとした実をつけている。引っ越してきて初めての秋を迎えた去年はただの名も無い木だと思っていたのが実は柿だったことも、先日熟さずして地面に叩き落とされたふにゃふにゃのだいだい色の実を見つけて知った。見上げると青い柿がぽつぽつと実をつけていて、果物が庭に生えていることに嬉しくなった。実を結ぶ年と、そうでない年とがあるのか。しらべると葉を剪定しすぎると実をつけないことがあるそうで、そういえば入居前に庭師さんが入ってかなりきれいにしてくれたみたいだから、きっとそのせいだろう。自然に逆らうと、なるはずの実もならない。ここは貸し家だけど沢山の植物が植えられていて、どの季節も飽きない。金柑や柚子の木もあるのでこれからが楽しみだ。
ささやかな喜びのひとつを書いてみたい。それは、自分にとって一番好きな季節が何か、ここ最近になってようやく分かったこと。ほんとうに小さなことだけれど、今までは「どの季節が一番好きですか?」と訊かれてもぴんとくる答えができなかった。二言はありませんよ、とスパッと答えてしまえる人がいれば、「この人、自分のことをよく分かっているんだな」と尊敬のまなざしで見た。もしその答えがその場の雰囲気でなんとなくとか、思いつきとか建前であったとしても、とにかく一言でこうだと答えられるその潔さがうらやましかった。
たとえ他愛ない会話の一部として行われていると分かっていても、一向にちゃんと答えることのできない自分に、年々気遅れと気持ち悪さがつのった。そういうことは季節の話だけじゃなく、常にあらゆることにおいてあった。何かを訊かれて、ぱっと答えることができない。いつも考え込んでしまう。なんとなくで答えることが失礼だと思ってしまう癖があるからだし、なんとなくで答える自分が好きじゃないからそうなっている。言葉が遅いとなんども言われたこともあるし、自分でも言葉を扱うことが苦手だとよく分かっている。ところが今回、喜ばしいことに、好きな季節がやっと分かったので、これからはもう同じ質問が飛んできてもしどろもどろにならなくて済む。
一番好きな季節、それは冬から春になる時。つまり、移ろいがいちばん好きだ。やっと自信を持って言える、百パーセント嘘のない答え。ああうれしい!そういえば、以前こんなニュースがあった。自白を強要された結果、嘘の罪を認めてしまったことで、何十年と服役させられた冤罪の被害者の人が獄中で「もう二度と決してこの口に嘘をいわせない」と固く決意をし、力強く生きるように努力した。そんなニュースを思い出した。その人と同じ土台で語るのは見当違いだけど、これでもう「ああ、何とかして答えなきゃ」と焦って適当なことを口走ってしまう後悔と嫌悪に苛まれなくて済むと思うと、心底ほっとする。そう。私が好きなのは、季節の移ろいです。
自分が何を好きなのかがわかると、とても嬉しい。世界に対してまっすぐに正直でいられる気がする。無造作に絡まったしがらみがするっと解けてくれたような、台風のあとの突き抜ける晴天のような、えも言われぬすがすがしさがある。冬から春への変化は、生きていてほんとうに良かったと体が震えるくらいすばらしい。それと夏から秋、ちょうど今くらいもいい。寒さと暑さが和らいでいく、というところ。移りゆくことは、もうあとには引けないことと、そういう進み方しかしない人生を生きている切なさと喜びを味わせてくれる。
私のしらない私の人生
さいごの親知らずを抜いた。パートナーのお母さんにたまたまそのことが知れたとき、顔をくしゃくしゃにした彼女に「歯を抜くなんてだめよ、やめなさい」とほとんど泣きそうなまでに懇願された。歯なんて抜くもんじゃないのよ。虫歯になったのなら抜かずに治せばいいの。とにかく駄目なの、抜いたら。絶対に。
切実な声でなんども訴えるお母さんをみていたら、申し訳ないような哀しいような、確かに言われる通りかもしれないような気がだんだんしてくる。この歯が体全体に占める割合のとても小さな部位だとしても、そもそも意味なくこの体に備わっているものなどひとつもなく、すべてがあるべくして生まれてきて、私の体という自然を支えている。だから歯を一本抜いただけでも、今まで生きてきた私という秩序はあとかたもなく破壊されてしまって、混乱が始まるかもしれない。そんな自然に反した行為がただしいわけがないじゃないか。お母さんの短い言葉の中に詰まっている、きっと言いたいであろうことが全部伝わってくる。どうしよう。
でも結局、抜いた。この先何度も虫歯になるたびに治療するくらいなら、いっそ抜いてしまったほうが楽だ。それはやっぱり浅はかな考えかもしれない。将来乳がんになることを恐れて乳房を除去し、世界的にニュースになった俳優のことが浮かんだ。なんだかそういうことではないような気がすごくする、とあの時感じた違和感の行為を、自分の体に対して易々とおこなってしまった。けれどもう、あと戻りができない。
私はもう以前の私じゃないんだろうか。いやそんなことは当たり前だ、それでいい、と我に返る。親知らずを抜いたって抜かなくたって、私という秩序は小さすぎるがゆえにとてつもなく大きな破壊と創造を日々繰り返している。昨日まであったものがなくなり、外からやってきた新しいものが私の中にうようよ入って、今日の私を作る。食べて、消化して、出して、吸って、嗅いで、咬まれて、さわって、いろんな形で取り入れた他者がこの体を絶え間なく作り上げ、だから毎日別人みたいに生まれ変わっている。多少無理やりに歯を抜いてしまうこと自体は自然ではないかもしれないけど、人生は自然なことだけでするするすすんでいるとは限らない。
でも親知らずを抜かなかったバージョンの私の人生というのは、ちゃんとあるように思う。お母さんが止めて、そこまで言うならと、それに従った場合の私の人生。それは、そういうものはどうしてもあるような気がする。たらればとかで雑に扱われてしまう話ではなく。一生会うことのない他人のうちの一人みたいに今この瞬間も地球上のどこかで、そういう別のバージョンの人生も確かに息をしている気がするのだ。
もちろん親知らずだけに限らない。きっとどんなささいな決断においても、そのたびに生まれたもうひとつの選ばなかった人生が星の数ほどある。そっちのほうの人生たちはきっと、見えないところで今日もつつがなくそれなりに続いている。それならばいったい今私は一体何万の、いや何億でも足らないかもしれない無数の通りの人生を同時に、生きていることになるだろうか。やっぱり私が私だと思っている人は、思っている以上に私ではないはずだ。そう思い始めると足がガクガクする。体がふわふわと浮きそうにかるくなって、胸の中にすーっと空っ風が吹く。私なんて、どこにもいないんだ。私は無数の私でないものの寄せ集めとして、今ここにいる。それなら安心する。
休日コインランドリーものがたり
数年ぶりにコインランドリーに行った。滅多に行くことがないのでわくわくしながら。新しく見つけた海のそばのそこは清潔感があって、無料Wi-Fiや電源席もあるので待っている間に作業もできる。ラッキー。たまたま秋分の日で、よりによって土砂降りだったけれど、どうしても今日やりたかった。季節を乗り越えていくときに、いろいろなものをすっきりきれいにしておきたかったのだ。
祝日だからか人が多い。大型タイプが人気で空くのを待っている人の列まである。うわーどうしよう、とそのへんに何気なく立っていたら、「そこの空き待ちの、今から使うの私なんで」とはっきり牽制されてしまった。食うか食われるか。残り時間表示をざっと見てもどれも一時間以上空かないので、仕方なく小型タイプに入るものだけ入れて気長に待つことにした。
まだ夏を引きずった明るい陽射しが、窓の多い空間に降り注ぐ。窓際の江ノ電を見下ろす席で作業をしようとパソコンを開いた途端、これはむりだと悟る。すぐそばにフル稼働の大型洗濯機に、乾燥機が十台ほど。音も相当だけど、機械の熱気がすごいのだ。今にも産まれそうな巨大な恐竜のたまごが十個並んでいるみたいで末恐ろしい。こんなふうでは感覚が散ってしまって作業どころではないので、仕方なく外に出て雨の中を歩くことに。近くのローカルスーパーの手作りお惣菜コーナーを物色してみたり、観光の人たちに混じって江ノ島までつづく商店街をふらふらしてみたり。
二百円の焼き芋に半額シールを貼ってもらったものを買いランドリーへ戻ってみると、大型タイプがそろって空いていた。布団にシーツに毛布が数枚ずつ、それに冬物のかさばる服。沢山あるので三台同時に使ってようやく洗い始める。乾燥がおわるまで、さらに一時間強。また外へ出ようか、どうしようか。その前に、さきほど終わった洗濯物をせっせと畳まなくては。滅多にさわることのない乾燥機仕上げの洗濯物は手触りも匂いもなんだか新鮮で、新しい趣味を覚えたばかりの人のホカホカした気持ちになった。今日までのいっさいの記憶をなくしたようにみえる、ぱりっと乾いた洗濯物たち。私がその上でぐーたら寝たこととか、お茶やトマトの汁をこぼしたこととか、そういうのをきれいさっぱり忘れてきて見ずしらずの他人みたいな顔をしている。
それにしても、馴染みのない場所は面白い。洗濯なんてふだん家の中で済ませていることを、わざわざ外へ出かけて行ってやる。生活のことを家を出て外でやる、この特別なへんな感じ。家でなら、洗濯機をまわしているあいだに何かしら、とくに何も思わずにやっている。あまり待っているという意識もない。それが外に出てやる洗濯になるとなぜか、乾くまで待つ時間というものが急に強調される。
限られたこの時間で、なにしようか。何もしなくてもいいし、何でもできる。楽しいこと。意味のあるようで、ないこと。この切実な宙ぶらりんさは、すごく人生っぽい。その辺をうろうろ歩いてもいいし、本を読んでも、あるいは熱と騒音に乱されながらそれでもちょっとだけ仕事しても、ぼーっと空を眺めてもおやつを食べても、なんでもいい。おだやかな漂流の、ぽかっと抜けた時の隙間で、何をしてもしなくてもいい。さあ、どうする。地球のゆらぎをそうっと地面に落としていくみたいにくすぐったく、得体のしれないものをどうにかお腹に取り込んで地に足つけてゆこうとするような勇気に満ちたこの感覚は、長い長い人生という道を生きることに通じている気がするのだ。あの時間を体験するために、私はきっとまたコインランドリーへ行く。
写真・文/関根 愛(せきね めぐみ)