南房総にて、家族で自給自足を目指した13年間を経て、2011年3月の福島第一原発事故を機にハワイに移住された環境活動家のきくちゆみさん。
2010年にveggy編集部がインタビューした内容をお届けします!
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毎日のように自分たちで育てた野菜を食べ
自分自身も気持ちよく自然の中で循環して生活する
そして地球が戦争を必要としない
そんな世の中になるのが理想です
環境破壊を 目の当たりにして 気づいた様々なこと
米銀行の東京支店で働いていた20代の頃、私は休暇を利用して中央アメリカのベリーズという国に遊びに行きました。そこは全く開発されていない土地だったので、熱帯雨林やサンゴ礁、マングローブといった大自然がそのまま残り、絶滅になりそうなジャガーなどの野生動物たちも楽しそうに共存していました。そんなところが気に入って、気づくと私は休暇が取れる度に通うようになっていました。それから3~4回目に行った時、あんなに豊かだった森が突然見渡す限り無くなっていたんです。当時は80年代後半で、土地が安いせいかアメリカやカナダの資本が参入し、外国人向けのリゾートを作るという目的で森林が次々と伐採され、どんどん開発が進んでいました。当時の私は銀行でディーラーをしている外国資本側の人間だったので、「そうか、私が稼いだお金はこういうところに来てこういう風に使われていくんだな!」と気づいたんです。それは自分のやっていることと目の前で起こっていることとが、明確に結びついた瞬間でした。それから自分なりに調べていくと、世界中の熱帯雨林が実はもの凄いスピードで無くなりつつあり、特に80年代は世界でもっとも日本が森林を伐採していた時代だったと知りました。当時の熱帯丸太貿易の資料を見ると、世界の熱帯丸太の過半数が日本に輸入されていたんです。そのことがとてもショックで、もしかしたら大量生産・大量消費といったいわゆるスクラップ&ビルドの様なシステムに問題があるんじゃないかと感じ、しばらく銀行で働きつつも環境活動を始め、その年に銀行を辞めました。当時は一般的な価値観から見ると、多分とてもいい給料を頂いていましたし、当然ながら親にも猛反対されましたが、とにかく「環境を改善するために何かしたい!」という自分の中の衝動を止めることはできませんでした。そしてその後は、熱帯雨林の森が伐採されないよう保護する為の資金を集める運動を一人で始め、多くの方々のあたたかい協力を得たところ、後に「モンキーベイ自然保護区」を作ることができました。
環境問題は頭で考えず、 まず自分のできることからはじめよう
「モンキーベイ自然保護区」を作るにあたって、最初は金融界の友人に協力してもらえないかと声をかけたのですが、ほとんどみんなリターンのない寄付には興味がなく、相手にされなかったんです。そしてなにも実行できないまま半年ぐらい経った頃、アースデーを立ち上げたデニス・ヘイに出会い、「環境問題は頭で考えてもダメで、まずは小さいことでもいいからあなたが行動することが環境問題の解決に繋がるんだよ」という彼の言葉でやっと目が覚めました。私はそれまで色々な環境問題の本を多分100冊ぐらい読んでいましたが、頭で考えてばかりで何も行動していなかったんですよね。それに気づいてからは、まず自分の持っているブランド品や要らないものを売ることにしました。当時はインターネットもないので、友達に「森を守る為にあなたの要らないものを寄付してください」といった内容の手紙を書きました。そうするとその友達が手紙をコピーしてまた別の友達に送ってくれて、それがどんどん拡大し、なんと1カ月ぐらいで私の家は全国から届く段ボールでいっぱいになってしまいました。そのとき「人が何かに共鳴した時のパワーって凄いな~!」と感じたと同時に、「自然のために何かしたいという人がこんなにいるんだ!」ということに感動しました。その時の感動が今もなお私の中で続いていて、現在の平和活動などにも繋がっている感じです。 そういった私の活動が読売新聞で記事になり、それがキッカケで講演を依頼されるようになって、あれから20年経ってもまだ講演依頼が来ます。
都会の生活で感じた、 食や環境問題への矛盾
結婚して子どもを妊娠してから自宅出産をしたいと思い、「自然に産むには自然な食事をしなければ」と気づいて無農薬の野菜を取り入れるようになり、自然とベジタリアン的生活になりました。でも普通のスーパーでは大根が100円で売っているのに、自然食品店だと300円で売っていたりするので、自分で作りたいな、と思い始めました。当時田園調布に住んでいたのですが、その家の近くの空き地に種を撒いて「土地の代金から言ったらこのトマトは1万円だね!」なんて言いいながら育てていました(笑)。そうしていくうちに、やっぱり都会より田舎で自給したいと思うようになっていました。 当時からリサイクルやコンポストなどをしていたのですが、そんな私が都会の暮らしで真っ先に限界を感じたのは生ごみと糞尿の問題でした。ある時、マンションに住んでキッチンから出た生ゴミでEMぼかし(※)を作り、夜中に公園へ行って埋めるということにストレスを感じるようになったと同時に、毎日のように自分がトイレで流したものが下水処理場に流れていって、強力な薬で処理されて川や水を汚しているという現実に耐えられなくなったてしまったんです。自分がもっと気持ちよく循環して生活するには都会では無理だと感じていました。 最初の夫はいわゆるビジネスマンだったので、子どもが病気になった時に「病院に連れていく、連れて行かない」ともめたりして、だんだん価値観の違いが大きくなって別れました。そして次に出会ったのが今のパートナー玄さんでした。もともと彼も私と同じ都会人ですが、私がここに越してくる10年前からこの場所に住んで自給自足の生活を送っていたんです。そこに私が移り住んできたという感じで、今もありがたいことに畑仕事はほとんど玄さんがしてくれています。
昔ながらの豊かな暮らしをもっと多くの人に伝えたい
ここに来て最初にお米を収穫した時に、約2年分のお米を眺めながら「本当に豊かだな~」と感じたと同時に、これからは本当に好きなことだけやって生きていこうと思いました。お米さえあれば野菜を育てなくても周囲に野草が沢山あるので、味噌、醤油といった最低限の調味料があれば食べていけるんです。私は28歳で銀行を辞めたのですが、その時の年収が1千2百万円でした。でもそれだけ稼いでも「これで充分」という安心感がないんです。同じ銀行の先輩たちは3千万円、5千万円、1億円とか稼いでいましたから、私は最も収入が少ない方でした。そのころの精神状態に比べると、今は焦ることも無く本当に心が豊かになったと思います。今日みたいに風が強かった日の翌朝はみかんなどが食べきれないほど沢山落ちていてるので「みんなに送ってあげよう!」って思ったり、「お金では買えない豊かさってこういうことだな~」としみじみ感じています。 わが家の畑は雑草をあまり抜かない自然農法なので、土づくりと種まき以外は太陽と雨といった自然が全てやってくれています。玄さんは器用なので、コンポスト・トイレなども自分で考えて作りました。こういった生活は本当にほとんどお金がかからないのに、「昔の日本人はどうしてこんな良い暮らしを手放してしまったんだろう?」と不思議でしょうがないですね。多分戦前までは7割の日本人がこういった生活をしていたんじゃないでしょうか。とはいえ風が強い日などは、天井から煤が落ちてきて次の日掃除が大変です(笑)。昔の家はどこも囲炉裏で火を焚いていましたから、天井に大量のすすが溜まっていて、それが二百年分なのでもう凄いことになっていると思います。本当は天井裏もキレイにしたいんですけど、まだまだリフォームが追いついていないんです。今は納屋も改装中ですが、この現場を多くの方に見てもらって「漆喰の壁なども自分達で塗れるんだ!」ということを知って欲しいんです。ここでは定期的にリトリートを開催していますが、みんなでローフードを食べたり快医学を教えたりしています。体の事を理解しておくとラクだし、病気は自分で予防し、直すことができるってわかると楽しいですよ。 私自身、最初はマクロビオティックを取り入れていたのですが、最近はローフード率が高くなりました。ローフードのおかげで驚くほどサイズダウンしましたが、子どもたちはローフードを食べたがらないので、おみそ汁と玄米ご飯は毎日みんなで食べています(笑)。
多くの人に知ってほしい平和の話
もし子どもがいて戦争になってしまったら、赤ちゃんを抱えたまま急には逃げられないし、逃げても限界があります。9・11事件後、対テロ戦争が起こってスグ、私はいてもたってもいられなくなって、グローバルピースキャンペーンを始めました。そして調べていくうちに、戦争とは実は一部の資本家たちが起こしているんじゃないか? ということに気づいていきました。大義名分がないと戦争はできないからこそ、それ相応の理由がたとえ強引であっても必要になります。9・11事件に関しては、米国政府が関与しているという説があり、詳しいことは私の著書やDVDなどを参考にしてください。 私はもっと多くの人々が真実に気づいてくれることが平和に繋がっていくと思っているので、今後も半・農業、半・講演、書き物、平和活動といった感じで、多くの人々に平和を創る生き方や情報を伝えていきたいと思っています。
*「EMぼかし」 生ゴミを食べてエネルギーに変えるバクテリアが集まったグループをEM菌という。それらを米ヌカなどにいれて、EM菌を大量にふやした粉をEMぼかしという。
雑誌veggy(ベジィ)バックナンバーVol.10より抜粋